とりおたです。生産終了したフジカラーのリアラエース風の色合いを思い出してraw現像した、菜の花です。
断捨離とカメラ趣味
こんにちは、とりおたです。
写真を撮っていて行き詰まったときに次のようなことを考えました。写真を撮ってそれを飾るというのは、意識が過去の方に向きがちになるから、それでこんなに気持ちがどんよりしてくるのではないかな?そのときはそれがとても納得がいったので、ほんとにスパッとやめてしまいました。ちょうどそのころ、「ガラクタ捨てれば自分が見える」という本に出会い、あんまりにも内容に共感してしまい、そこからもう異常なほどの捨てまくり人生に突入です。いま、ミニマリストという言葉が流行ってきていて、そうした方たちが、きれいな部屋の写真を本に載せたりしています。ちょうどあんな感じに、なにしろきれいにしました。
モノへの執着を絶たなければ!でもあんまり突き詰めると、それはそれで行き詰まるわけです。いま思うと、執着を捨てるということに執着していたわけで、結局中味はなにも変わっていなかったな、と分かります。多少は大人になったのでしょうか。
写真を撮っていて行き詰まったときに次のようなことを考えました。写真を撮ってそれを飾るというのは、意識が過去の方に向きがちになるから、それでこんなに気持ちがどんよりしてくるのではないかな?そのときはそれがとても納得がいったので、ほんとにスパッとやめてしまいました。ちょうどそのころ、「ガラクタ捨てれば自分が見える」という本に出会い、あんまりにも内容に共感してしまい、そこからもう異常なほどの捨てまくり人生に突入です。いま、ミニマリストという言葉が流行ってきていて、そうした方たちが、きれいな部屋の写真を本に載せたりしています。ちょうどあんな感じに、なにしろきれいにしました。
モノへの執着を絶たなければ!でもあんまり突き詰めると、それはそれで行き詰まるわけです。いま思うと、執着を捨てるということに執着していたわけで、結局中味はなにも変わっていなかったな、と分かります。多少は大人になったのでしょうか。
写真をやめたということを伝えたときに、私の写真をすごく気に入ってくれていた人が、こんなことを言いました。「言ってることはよくわかる。でも、あなたの写真を楽しみにしている人のために撮る、ということも、ちゃんと意味があることだと思うよ。」この言葉も、その時には行動を変えるようなきっかけにはならなかったのですが、心のどこかには残りつづけて、復活に向かわせてくれたようです。
写真というのは風景だけではないですが、風景を例に考えると、素晴らしい景色に出会ったときに、写真に撮れば、感動を他の人と共有できるわけです。そこが写真のよいところだなと思います。iPhoneなどというすごいものもあって、パソコンの苦手な私でもブログで発表できますし。
カメラ趣味に戻ってきてしまったわけではありますが、断捨離時代の、スッキリした部屋で快適に暮らすという心地よさも、記憶に残っていて、現在はそことの闘いです。カメラ好きの考えることというのは、だいたい、次のような感じになるかと思います。わかる人はわかってくれるのでは。
ニッコールオート28㎜3.5というレンズは、最短撮影距離を欲張らなかったから、収差が少なくて、いい描写のレンズなんだな。じゃあこれは試して見よう。購入。使ってみて、あーやっぱり最短撮影距離、60センチだと、アップにできなくて使いにくいな。とかいって28㎜の別なレンズを探す。
このカメラ、軽いから、登山によさそうだな!よし購入。使ってみると、軽いカメラはブレやすいということに気づいたりします。うん、やっぱりここは重いカメラだな!こんな感じに、どんどんカメラもレンズも増殖してしまいます。
このカメラ、軽いから、登山によさそうだな!よし購入。使ってみると、軽いカメラはブレやすいということに気づいたりします。うん、やっぱりここは重いカメラだな!こんな感じに、どんどんカメラもレンズも増殖してしまいます。
カメラもレンズも、かなり、あちらを立てればこちらが立たない、ということがあります。小型軽量であることは持ち運びには利点がありますが、フィルムサイズ、今で言えばセンサーサイズが小さくなり画質の点では不利になります。かといって高画質を追求しすぎると、重くなり、高くなり、コマ数たくさん取れなかったりということがでてきます。きっと、撮りたいものがほんとにはっきり見えていたら、機材もこれがちょうどいい、ということがわかり、絞ることができるのでしょう。活躍されているプロの方にそういう方は多いです。また、たくさんの機材を使い分けながらよい作品を生む人ももちろんいますから、どちらがよいということではなく、人それぞれなんだと思います。自分が見えていて必要なものはこれ!と迷わず決められる心の在り方にとてもあこがれつつ、ふらふらとさまよってしまうのが現状のとりおたでした。
二眼レフは、以前一番使い込んでいたものなので、とても体に馴染んでおり、自分の視覚の延長のようになっています。それを最近あまり使わないのは、慣れすぎていて、自分の撮るものが撮る前から想像できてしまうのです。それがマンネリになり、あー毎回かわりばえしないなーと思ってスランプになってしまう。そんなことを考えて出番が少なくなってしまいます。ところが、カメラを変えて、撮っても、やはり似たようなあがりになったりするもので、結局撮り手の癖というものは、どうやっても残るのかなと。このあたりに執着を脱出する鍵がありそうな気がします。
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